居合の極意を説いた和歌についての考察

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剣の道を極めんと山奥を歩き続けていた結果、村に近付いてしまっていた。

なかなかに人里近くなりにけり
余りに山の奥を尋ねて

しかし、剣というのは本来そうあるべきだ。居合の極意というのも、剣を抜き、鞘に納めることに他ならない。

では、なぜ修行するのか?
剣の動きには不自然さがあってはならないからである。

では、不自然さを無くす修行とは?
俗世でのしがらみを断ち、真っ直ぐな心をもって自身が自然と一体化することである。

では、その心は?
禅にもある通り、至る所は無我である。無我とは、自身の意思が無くなることではない。その本質は、自身が自然の中へと溶け込み、調和を成すことである。

つまり、無我の境地に至っても自分の意思は持ち続け、自然を心広く受け入れ、行動し続けなければならない。

そのため、山奥を歩き続けて、人里に出てしまったというのも、また自然であり、人との出会いから剣の道というのは発現するというのも、また受け入れるべきである。

その上で、もう一度。

なかなかに人里近くなりにけり
余りに山の奥を尋ねて