石火の機

『石火の機』

・石火とは何か?
石火とは火打石を打った時に出る一瞬の火花である。大事なことは"打つと同時に火が出るということ"。その現象には意思は介在しない。

つまり、火打石が「よし!火を出すぞ!」などと意気込むわけでもなく、打ち付けたら瞬時に火花を散らすそれだけである。

そこから、武芸者は『理』を見出した。

剣で相手を切る時に、心は相手の殺気や自身の安全などに執着するのではなく、電光石火の早業で仕留めるべし。

ここに『無心』がある。
何者にも気を取られず、自身の"反射"に近い動きで闘えば、相手の意表を突けるというものである。

歴史上の人物を例に挙げる。
柳生宗矩の剣の教え"二の太刀"がその典型である。一の太刀で相手を斬ったとしても、斬れなかったとしても無心のうちに"二の太刀、三ノ太刀"を相手に浴びせるべしと。

ここに、本当の"残心"がある。
現代の剣道では、相手から一本取った後でも剣を向けて相手を見据えることを指す。

しかし、真剣での"残心"というものは自分の剣が相手に当たったにせよ、確実に相手の命を奪わない限り自己の安全は守れない、そこで油断なく何発も斬撃を浴びせて確実に絶命させることに真の"残心"があるのだ。

"心"は相手を完全に絶命させた後に自分の中へ戻るのであって、勝負の間はありとあらゆる方向へ放たれ自身から離脱し、身は心を失い無心に至る。

・まとめ
剣が当たったという此方に有利な現象が起きてさえも気を抜かず、無心の電光石火の追撃で相手を仕留めるということが、柳生宗矩から見える『石火の機』の一端である。

・追記
沢庵坊は人を斬り終わった後でも、心は常に自然に放ち、一つのことに執着しない大切さを解いている。
このブログで、あえて心は自分の中へ戻ると書いているのは、吉川英治氏の『宮本武蔵』の内容を取り入れるためである。
その意図は『宮本武蔵』の書評で詳しく記述する。